書籍・雑誌

2014年8月18日 (月)

人間椅子

萩原朔太郎が激賞

コナン・ドイルに熱中した昔もある。今ではもう退屈だ。犯罪があり、手がかりがある探偵が出る。ああいふ型の小説を探偵小説といふならば、もう探偵小説はたくさんだ。
所謂探偵小説は、一のマンネリズムにすぎないだらう。どれを読んでも同じことだ。ちゃんと型が決まっている。もう好い加減に廃つたらどうだ。読む方でも飽き飽きした。

この点、人間椅子は「真相」がないため、いわゆる「探偵小説」の枠に収まらない。ここに朔太郎は賛辞を送った。

箱と椅子

自分の醜態、妄想、現実逃避を語る手紙。そして椅子に入ることで得られる優越感と満足感。「見られずに見ること」ができる。

この驚くべき発見をしてからというものは、私は、最初の目的であった盗みなどは第二として、ただもう、その不思議な感触の世界に惑溺してしまったのでございます。私は考えました。これこそ、私に与えられた、ほんとうのすみかではないかと。私のような醜い、そして気の弱い男は、明かるい光明の世界では、いつもひけ目を感じながら、恥かしい、みじめな生活を続けて行くほかに、能のない身でございます。それが、ひとたび、住む世界をかえて、こうして椅子の中で、窮屈な辛抱をしていさえすれば、明かるい世界では、口を利くことはもちろん、そばへよることさえ許されなかった、美しい人に接近して、その声を聞き、肌に触れることもできるのでございます。

「人間界」「人間世界」などという大仰な言葉を対比項に使いながらその特殊性が強調される「椅子の中」の世界は、「箱」の一種として求められたのである。では、そのような「箱」的機能を「椅子」は如何なる形で果たしていたのか、その具体的な様相を次に確認したい。

 触覚的な「椅子」の存在は、第一義的には視覚から逃れ得る場所との意味を担うものであろう。(現実逃避)

異性についても同じことが申されます。普通の場合には主として容貌の美醜によって、それを批判するのでありましょうが、この椅子の中の世界では、そんなものはまるで問題外なのでございます。そこには、丸裸の肉体と、声の調子と、匂いとがあるばかりでございます。

私は、彼女が私の上に身を投げたときには、できるだけフーワリと優しく受けるように心掛けました。彼女が私の上で疲れた時分には、分からぬ程にソロソロと膝を動かして、彼女のからだの位置を変えるようにいたしました。そして、彼女が、ウトウトと居眠りをはじめるような場合には、私は、ごくごく幽かに膝をゆすって、揺籃の役目を勤めたことでございます。 その心遣りが報いられたのか、それとも、単に私の気の迷いか、近頃では、婦人は、何となく私の椅子を愛しているように思われます。彼女は、ちょうど嬰児が母親の懐に抱かれるときのような、または、乙女が恋人の抱擁に応じるときのような、甘い優しさをもって私の椅子に身を沈めます。そして、私の膝の上で、からだを動かす様子までが、さも懐かしげに見えるのでございます。

 「座る」という行為は、ここでいわば性的関係の一種として捉えられている。そしてこの「嬰児/母親」或いは「乙女が恋人の抱擁に応じる」といった一定の力関係を示す比喩の巧みな使用は、これまでの文脈に照らして理解可能。「及ばぬ恋を捧げていた、哀れな男」と自らを卑下しようが、「ほんとうの恋を感じる」に必要な「愛」「優しさ」「懐かしさ」といった心的要素の再構成を目論む「私」の意図は揺るぎない。そして、こうした事態を告げられた彼女は自らの〈主体〉を支配される恐怖に怯えることになる。

佳子は、毎朝、夫の登庁を見送ってしまうと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館のほうの、夫と共用の書斎へ、閉じこもるのが例になっていた。そこで、彼女はいま、K雑誌のこの夏の増大号にのせるための、長い創作にとりかかっているのだった。 美しい閨秀作家としての彼女は、このごろでは、外務省書記官である夫君の影を薄く思わせるほども、有名になっていた。彼女の所へは、毎日のように未知の崇拝者たちからの手紙が、幾通となく送られてきた。

 「やっと自分のからだになって」「閉じこもる」ように打ち込むとされる佳子の作家活動は、誰からの干渉でもなく彼女自身によって選び取られた〈主体〉確立の孤独な営みに他ならない。しかしながら、一見極めて自己充足的に見えるその「創作」という営為も、読者という他者の想定を避け難く要求する。

「美しい閨秀作家」として「有名」だということは、決して文学的才能が評価されていることのみを意味しないだろう。女性という容貌、そして彼女の内面の露呈とも理解可能な「創作」等の要素によって、あたかも佳子という実体に到達する事が可能であるかの如き錯視を誘う「作家」の身体は形成される。勿論、それはあくまで錯視に過ぎないのであり、そこには様々の仮装を伴った身体が浮遊する抽象空間が成立している。その演技的な空間に取り交わされるものであるが故に、「未知の崇拝者」からの手紙は、決して未知の反応を伝えない「極まりきったように、つまらぬ文句のばかり」に終始し、佳子も「優しい心遣い」という余裕を持った態度でそれらに目を通すことができる。

 演技的且つ想像的な抽象空間を介した作家的身体の外界への結節を経てはじめて、「自分のからだ」になってから「閉じこもる」ようにして創作に打ち込む彼女の主体的な欲望の充足は可能になる。その意味で「閨秀作家」という立場は、彼女の身体の消費を可能にすると同時に、佳子自身にとって一種の「箱」的機能をも果たしていたと言い得る。とするならば、その抽象空間の秩序を脅かす一通目の手紙は、主体定立の営為が不可避に抱え込まざるを得ない根源的な不安定を衝くものと理解されよう。「私」が身体を隠すことで欲望の実現、〈主体〉の定立を試みたとするならば、佳子は隠匿していた身体の露呈によってそれが不可能であるような地点に追い込まれたのである。抽象化商品化された作家的身体によって覆い隠していた筈の佳子の〈主体〉もまた、その成立の条件に於て極めて関係的な抽象空間への参与から自由ではないことが、「私」の〈告白〉によって明示される。

椅子を調べて見る?どうしてどうして、そんな気味のわるいことができるものか。そこには、たとえもう人間がいなくとも、食べ物その他の、彼に附属した汚いものが、まだ残されているにちがいないのだ。

 椅子の中に存在する筈の証拠、及びそこに確認される筈の〈真相〉は、その決定的な開示を佳子自身によって拒まれ、彼女の内面にあって宙吊りにされる。自らの想像裡に仮構された「私」の〈幻想〉に怯える、マゾヒスティックとも言うべき佳子の身振りは、この「箱」的抽象空間固有の不安定な性質を余すところ無く示していよう。他者の所在を証し立てる唯一無二の〈真相〉の〈告白〉は、それ自体のうちに過剰な解釈を要請し、複数化・迷宮化して行く。佳子を引き裂く「差出人不明」の手紙のいかがわしさとは、「箱」的関係性に於て保たれる〈主体〉が必然的に要請する〈幻想〉の中にその根源的な位置を占めるということである。

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2014年8月17日 (日)

推理法について

ホームズ

知識

まず知識についていえば、ホームズは、犯罪捜査に役立つ種々の情報をよく整理して、必要なときにいつでも使えるような形で蓄えていた。例えば、どんなナイフを使えばこういう傷ができるかとか、こういう症状をもたらす毒はどの植物から採れるかなど、実に多岐にわたる知識である。

僕の考えじゃ、人間の頭なんでものは、もともと小さな空っぽの屋根裏部屋みたいなもので、自分の好きな道具だけをしまっておくようにできているんだ。・・・熟練した職人は、頭の屋根裏部屋に何を入れておくか、実によく注意を払うものだ。自分の仕事に役立つ道具だけを選んで、十分細かく分類し、完璧な方法で整理しておくんだよ。(「緋色の研究」)

観察

ほら、やっぱり!君は観察していないんだ。だが、見ることは見ている。その違いが、まさに僕の言いたいことなんだ。(「ボヘミア王家の醜聞」)

平凡な犯罪ほど、多くの場合よくわからない。なぜなら、そこには人の推理を引き出すような目新しさやきわだった特徴がないからね。(「緋色の研究」)

確率

いや、確率を秤にかけて、最も確からしいものを選ぶ領域、と言ってほしいですね。それは、想像力を科学的に用いることですが、われわれは推量を始めるための具体的な基盤をいつももっています。(「バスカヴィル家の犬」)

ホームズが事件の真相にたどり着くときには、部分的な推理が幾つも組み合わされることが多い。その一つ一つについて、彼はより確からしい推理を求め、最善の仮説を組み立てていく。そして最後に、事実による十分なテストを切り抜けて残った仮説が、問題の本質をとらえた正しい結論だと判断される。ホームズが「想像力を科学的に用いる」というとき、彼はこのような手続きを怠らなかった。これがホームズの名人芸の秘密なのである。

ポワロ

捜査に際しても彼一流の手法をとる。ホームズ流の現場の地面にはいつくばって証拠品を集めるやり方を、「猟犬じゃあるまいし」と小ばかにし、容疑者たちとの尋問や何気ない会話に力点を置き、会話から人物の思考傾向・行動傾向を探る。ただし、物的証拠を見落さず、軽視することもなく、それらと心理分析を組み合わせ、「灰色の脳細胞」を駆使したプロファイリングによる洞察により、真犯人を言い当て、数々の難事件を解決する。

事件の真相に近づくと、「私の灰色の小さな脳細胞(little grey cells)が活動を始めた」と口走るのが癖。また、いつも行動を共にするヘイスティングズ大尉にも「あなたの灰色の脳細胞を使いなさい」とよく諭している。フランス語圏出身のため、興奮すると訛ったり、英語の合間合間にフランス語を混ぜたりする。ポアロ自身は、英語がまともに話せないふりをして英国人を油断させるのだと言っている。いかにも外国的で、時として滑稽とも見えるポアロの言動に、英国人の容疑者たちは油断し、事件解決の手がかりとなる言葉を洩らしてしまうことも多い。ただし、フランス人と間違われることをひどく嫌う。船や飛行機が苦手。

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2014年8月16日 (土)

あらし

1.      資本主義の島

孤島ではありながら、すべてがギブアンドテイクの関係で結ばれている。すなわち資本主義的交換の発生。

プロスペローがアントニオに王の地位を奪われ、孤島に住む。アントニオは全権を掌握、大公になろうと画策。

彼は政敵・アロンゾと交換条件を結ぶ。ナポリの属国になれば、アロンゾはプロスペローを追放、ミラノをアントニオに渡す。プロスペローはミランダと逃亡、魔法を得て孤島を支配。

妖精エアリエルはプロスペローによって解放され、そのかわり従者となる。

キャリバンは、プロスペローから名前を教えてもらい、物をもらった。その代わり島のすべてを教えてあげた。

セバスチャンをアントニオが王位につかせれば、年貢を免除する。

ステファノーが酒を与えれば、キャリバンは彼を神と崇め、情報提供する。

これはあくまでも一部の交換条件。しかもこの交換は、対等ではなく必ず支配―被支配の関係がある。今でいう従属理論である。

ミランダとファーミランドの恋も、交換条件。「私には取り柄がない。差し上げたいものも。。手に取る勇気がない」

最も交換で原始的なものは物々交換だが、「あらし」では精神、自由までもがモノ化され、交換対象になる。孤島も俗世とはつながっていて、ユートピアの否定となっている。

2.「時」の島

なぜ「あらし」は英語ではTempest なのか?

Tempestas、すなわちラテン語で「時間と嵐」を意味するのだ。この「あらし」ほど時間、時の流れと関係する戯曲もない。フランス語ではtempsであり、時と天候を意味する。

魔法使いのプロスペローは、時間を守ることが必要。

妖精も期限が来ぬうちに、自由の身になれるように懇願し、行動する。

兄弟の恩讐も時が解決するという考え方。

魔法も永遠ではなく、終わりがある。

ミランダは知り合って三時間の男と結婚する。

反面、魔法は自然を縛るもので、人工的な造作物である。プロスペローが魔法を捨てることはすなわち、自然の解放である。

3.魔法の限界

島に対する見方が異なる。

アントニオ、セバスチャンよりも、ゴンザーロにとってのほうが住み易い。

二人の衣服は濡れているが、ゴンザーロのは乾いている。

ゴンザーロは島の豊穣さを見るが、二人は不毛性を見る。

Ant:どんな不可能なことをやるのやら?

Seba:奴がこの島をポケットに入れて、家にもち帰り、息子にりんごだと言ってくれてやるのではないか。

Ant:その種を海に蒔いて、もっと島を増やすつもりだぞ。

この二人は他者が眠っているときも殺害計画を練っている。そしてゴンザーロの共和国論はいい加減だ。そして彼は王となるが、主権がないのだ。

劇の最後まで、時と魔法によっても、悪人の本性は変わらない。所詮、魔法は魔法で、テンペストはテンポラリーなのだ。一時的な機能しか果たせない。

さらに、プロスペロー=シェイクスピアである。稀代の作家シェイクスピアが、自らの「魔法=ペン」を折ることを示唆しているのではないか?

プロスペローはエピローグで、魔法を使い果たした。そして観客にすべてを委ねるのだ。その後の展開は客任せというわけである。

通常、魔術師が島を離れれば、島はなくなる。しかし私たちはこの劇を見終わって劇場を後にしたときもりんごのようにこの島をポケットに入れている。そして歴史の夜明け以来探していた、ユートピア島を探すだろう。

それは自然と人間が調和する、島で主権も存在せず、我々が王である島である。

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2014年8月15日 (金)

俳句の基礎

それが室町時代末期から江戸時代にかけて行われていた「俳諧の連歌」である。

 俳諧は元来、たわむれ、おどけの意を表す言葉で、俳諧の連歌とは、「従来の連歌のように格式張らず、世俗的な言葉も使って楽しむ連歌」
  松尾芭蕉も、与謝蕪村も、小林一茶も、俳諧の連歌を生業とする俳諧師。
 だから、彼らを、すぐれた「俳句」を作った人と形容するのは、本当は正確さに欠く。
 まず、誰かが五・七・五音の句(長句)を詠む。
 この第一句目を発句(ほっく)
 この発句を踏まえて、別のだれかが七・七音の句(短句)を付ける。
 この第二句目を脇
 次にこの脇に付く長句を、誰かが第三句目として詠む。
 このように長句と短句を交互に詠んでいき、三十六句目まで続ける。
 これが俳諧の連歌。
  なお、最後の三十六句目は、挙句(あげく)。
 今でもよく用いられる「挙げ句の果て」という慣用句は、ここから来ている。
 この俳諧の連歌には、いくつか決まりごとがあったが、一番最初に詠まれる発句には、時候の挨拶がわりにその時々の季語を入れるのが習い。
 そう、この季語を入れて詠んだ「俳諧の連歌の発句」こそが、現代の俳句の直接の祖先である。
 芭蕉も蕪村も一茶も、俳諧の連歌を楽しむ中で、この発句作りには特に力を入れていた。
 明治時代、「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」の名句で知られる正岡子規は、複数人で行う俳諧の連歌を否定。
 そして、季語を入れ五・七・五音で詠む従来の「俳諧の連歌の発句」を、新たに「俳句」として一人立ちさせ、個人で創作できる文芸へと変えた。
 ここに、有季定型で作る「俳句」が誕生したのだ。

 
俳句の基本 1 切れ

 俳句の意味が分からない、と訴える人の多くは、「切れ」が読めていない場合が多い。俳句には「切れ」がある。そのことを知っただけで、ほとんどの俳句が、自分なりには読めるようになる。や、かな、けり、が切字

切れ字
 切れを生み出す「かな」「や」「けり」の三つの語。音調を整える役割もある。
 「かな」は末尾に使われることが多く、感動、詠嘆を表す。
 「や」は上の句に使われることが多く、詠嘆や呼びかけを表す。
 「けり」は末尾に使われることが多く、断言するような強い調子を与える。また、過去を表す助動詞であることから、過去の事実を断定するような意味合いを与える。 


 菊の香や奈良には古き仏達    松尾芭蕉

 菊が薫っているということと、奈良に古くからの仏が存在していることの間に因果関係はないことを、「や」という「切字」が明示している。一方に「菊の香」があり、同時に「古き仏達」がいる。そのふたつのものが持つイメージの重なったところに風情が生まれる。なぜこうした「切れ」という手法が生まれたかと言えば、十七音という短い詩形の中で、より多くのことを伝えようとするからである。散文の十七音とは比べものにならないほど多くのことを、俳句の十七音は伝えようとする。
 この「切れ」という方法は、今は俳句だけのものではない。映画で、あるショットから次のショットへのつなぎ方をわざと飛躍させ、単に足したもの以上の新しい意味を生み出そうとする「モンタージュ」という。

俳句の基本2 短く言って、あとは黙る

 長い詩では、言い換えたり、反復したり、譬えたり、否定したりして言葉を接ぎ足し、読み手をその作品の世界に引きずり込んでいく。朗々と続く美しい言葉のうねりに呑み込まれていくことが、詩を聞いたり読んだりすることの悦楽である。詩人の才能とは、一般にそのような言葉を次から次へ生み出せる能力だと思われている。それは、教典や聖書を書き上げたいにしえの宗教家の能力に連なる才能である。
 ところが、俳句は違う。俳人は、ひとこと言って、あとは黙る。これは、他のすべての詩形とは違った態度の取り方だと言えるだろう。
 いや、詩だけではない。戯曲にしても小説にしても、作家は、次々に言葉を継ぎ足し、読者の気を惹き続けようとする。これもまた反俳句的なやり方である。

俳句の基本3 凝縮

 「省略」は重要である。しかし、それは俳句の目的ではない。省略は、「凝縮」のための手段である。余計なことを言わずに、重複した部分を削ぎ取ることによって、一句の密度を最大に増やす。それが「凝縮」ということである。

金剛の露ひとつぶや石の上         川端茅舎

 無駄のない引き締まった表現は読んでいて気持ちがいいばかりでなく、明確なイメージを浮かび出させる。
 また、この句からも分かるように、「切れ」もまた凝縮した表現を生み出す。余計な説明を加えず、ただ「石の上」と置いたところに、読者の眼前にありありとした光景を作りだす秘訣がある。

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2014年8月14日 (木)

井伏の山椒魚

山椒魚と蛙。
 閉じ込められたものが侵入してきたものを閉じ込める。にらみあったままでおよそ2年がたつ。両者は黙り込んで、自分の嘆息が相手に聞こえないように互いに注意していた。

 井伏鱒二が削除したのはこういう内容だった。
 岩のくぼみにいた蛙が「ああああ」と「不注意にも深い嘆息をもらしてしまった」のである。それは「最も小さな風の音」のようだった。
 山椒魚はそれを聞きのがさず「お前は、さっき大きな息をしたろう?」とたずねた。
 蛙は「それがどうした?」と意地をはってはみるが、「空腹で動けない」と弱気になる。
 山椒魚「それでは、もう駄目なようか?」
 蛙「もう駄目なようだ」
 暫くして山椒魚はたずねる。「お前は今どういうことを考えているようなのだろうか?」

 これに続く最後の二行。
 相手(蛙のこと)は極めて遠慮がちに答えた。
「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」

 蛙の嘆息からこの最後までのくだりがなくなってしまった。晩年の井伏鱒二が1985年に自選全集で削除したのである。
 なぜ井伏は削除したのか?


 蛙が先に嘆息したのがまずかったのだろうか。
 閉じこめたほうの山椒魚のほうに何らかの自戒が認められないからか。
 和解する場面として解釈されるのが気に入らなかったのか。
 蛙が「今でも」「おこってはいないんだ」という科白はいろいろと考えさせてくれる。
 
 この作品は1923年(大正12年)に『幽閉』と題して発表され、1929年(昭和4年)に加筆して『山椒魚』と改められた。中学や高校の教科書にもよくとられていたので、1985年当時、削除のことはかなりの話題になった。少なくとも戦後30年ほどのあいだ「和解のラスト」を多くの中学生や高校生、国語を担当する教師が読み、親しんでいたのだ。

 以後、井伏鱒二がこの部分を削除したという説明が必要となり、そののちに刊行される井伏の作品集には和解なしの結末の『山椒魚』が載るようになった。
 20年以上たった現在では「以前はこうだった」とふれることも少なくなってきたのではなかろうか。

 和解の場面があると、たしかに安心できる。予定調和故に中学生や高校生には無難な読み物となる。
 削除によって、結末が両者の膠着状態だから、その後のゆくえについては読者にゆだねられる。
 一方で、蛙は岩屋に入るときは自由に入れたのに、どうして出られないのかという疑問も出る。蛙の身体は別に大きくなったわけじゃない。すきまを見つけて出られるのでは?山椒魚が全神経を投入し、持てる能力をすべて使って、蛙を出るのを阻んだのか。
  少なくとも、けんかする程度には「友だち」「仲間」だった時期があることはあった。
 削除するときに、結末になる部分を本当は少し変えたかったのではないか?変えてしまうと、ますますやっかいなことになる。とにかく変えることはしないで、蛙のほうが嘆息し、白旗めいたものをあげ、山椒魚をゆるすかのような言葉をのべる、その一連の場面をバッサリなくしてしまった。

 『山椒魚』はファンがけっこう多い。この作品を好きだという場合、結末をどちらにしてもあまり気にならないかもしれない。
 山椒魚がおかれる「寒いほど独りぼっち」の状況への共感。救いがなくて何ともならないことの、妙なリアルさ。
 日々生きていることの感触が、物語の底からにじみ出るものと出会うときに、ああこういうことなのかなあと思える。「寓話」としての魅力でもあるのだろうか。

 閉じ込められたままで何がいけないのか、出られなくなったものをひきずり込んで何がわるいのか。そんな居直りの気持ちも起きてくる。
 結論が欲しいのが人情、しかし答えが出ないときは出ない。
 老年の井伏鱒二は、その「答え」を回収しようとしたのではないか。なぜならその方がはるかにリアルである。『あらし』『子犬を連れた貴婦人』のリアリズムを感じるのだ。
 和解などということを安易に取り扱ってはいけない。

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2014年7月31日 (木)

ショーペンハウエル

ショーペンハウエル(1788-1860)

意志と表象としての世界

現実世界は意識の投影のみである。

世界は幻影や夢であり、常に可変している。

ヘーゲルが指摘するような、歴史が何か特定の目的や目標に向かうものではなく、単に人の視点で語られた物語である。

我々がおぼろげながら描く世界は不変の実在がある。しかし、現象、仮象、表象には実在がない。なぜならそれらは、消滅するか、形を変えるから。

表象=イメージ

「ヤマ」という言葉を聞けば、山をイメージする。このイメージが表象。あらかじめ山の象があって、何かのきっかけで意識に表面化する。世界は、現実的な「世界」ではなく、単に頭の中にある「世界のイメージ」なのだ。逆説的だが、「世界」(山)などは存在する。しかし、表象させているイメージは実在しないのだ。

「過去と言うも、未来と言うも、なにかある夢のようにまことにはかないものである。」

意志:生きようとするもの。

「主観的には人は自分が欲していることを行っていると感じている。しかし、これは人の行為がその人の純粋な現れであるということ。」

欲する物は人格の表れで、人格に矛盾した行動は取れない。そのような意味で動機を自由選択できないので、自由意志があるとは言えない。

多くの人の行動は理由、根拠ないものが多い。「意識は意志の目的に従って人を着実に活動的に働かせている。」

この考えは、無意識が人間を動かすとしたフロイトへつながる。(自我)

意志の超越

ショーペンハウエルは、意志を負の産物として捉える。意欲は苦悩、欠乏が原動力になっている。

私を脱する。禁欲的な生活を通じて欲から離れることができる。と同時に芸術体験を通じて解脱できる。

芸術は純粋にイデアを現前せしめ、個体性の超越へと至らせる。個体としての関心、欲望を捨て、イデアの観照によって根拠の原理から脱却することで、人は安らぎを得る。これは「関心なき適意」というカントの美の定義に立脚したもので、芸術の中でも特に音楽によって体現される。音楽は意志のもっとも直接的な客体化であり、この思想はワーグナーや若きニーチェにも多大なる影響を与えた。

こうして芸術は、意志に対する「鎮静剤」としての役割を果たすが、しかしこれもあくまで鎮静であって、永遠の解脱とはなりえない。真の救済への道は「意志否定」の中にしかありえない。そこには「同情」と「禁欲」、ふたつの道があるとショーペンハウアーは考える。すなわち、他人の中に己と同じ苦悩を認識することで純粋な愛が生じる同情と、また己の死さえも意志からの解放とみなす禁欲とによって、自発的な意志の放棄へと至る。

ここにはプラトンの「正義」、キリストの「愛」、そしてインド思想の梵我一如からの影響が確実に存在している。現実から意志を否定することで、解脱の境地へと達することが可能となるのだ。

読書

読書への懐疑。

他人にものを考えてもらうことが読書。本の虫は、自分で考えることを放棄しているのだ。

古典の精読、これらは比類なく卓越した精神の塊。30分でもよいから大作家を読むこと、そうすれば精神が軽やかになる。古典は懐古主義ではない、真に重要なものを見抜く目を養う。

量ではなく、いくども考え抜いた知識に価値がある。思索は、自ら動く。既存のものを押し付けず、ただ素材と機会を提供し、その天分と時分にかなった問題を思索するのがよい。反面、読書は思想を押しつけるのだ。故に多読は精神の弾力性を奪う。

思索はその到来を待つしかない。外からの刺激と内なる緊張が出会い一致すれば思索が必然的に動き出す。

難しい本は書いた奴が悪い。

①経験、思想を持つ筆者

②金のための筆者

後者は、つまならい思想を延々と述べてさも多量に思索したようにみせかける。難解な言い回し、造語を乱発するのだ、とショーペンハウエルは指弾する。

真の知識人は、飾り気なく、簡潔に、明確無な表現を使うのだ。

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2014年6月24日 (火)

山椒魚

山椒魚

山椒魚と蛙。
 閉じ込められたものが侵入してきたものを閉じ込める。にらみあったままでおよそ2年がたつ。両者は黙り込んで、自分の嘆息が相手に聞こえないように互いに注意していた。

 井伏鱒二が削除したのはこういう内容だった。
 岩のくぼみにいた蛙が「ああああ」と「不注意にも深い嘆息をもらしてしまった」のである。それは「最も小さな風の音」のようだった。
 山椒魚はそれを聞きのがさず「お前は、さっき大きな息をしたろう?」とたずねた。
 蛙は「それがどうした?」と意地をはってはみるが、「空腹で動けない」と弱気になる。
 山椒魚「それでは、もう駄目なようか?」
 蛙「もう駄目なようだ」
 暫くして山椒魚はたずねる。「お前は今どういうことを考えているようなのだろうか?」

 これに続く最後の二行。
 相手(蛙のこと)は極めて遠慮がちに答えた。
「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」

 蛙の嘆息からこの最後までのくだりがなくなってしまった。晩年の井伏鱒二が1985年に自選全集で削除したのである。
 なぜ井伏は削除したのか?


 蛙が先に嘆息したのがまずかったのだろうか。
 閉じこめたほうの山椒魚のほうに何らかの自戒が認められないからか。
 和解する場面として解釈されるのが気に入らなかったのか。
 蛙が「今でも」「おこってはいないんだ」という科白はいろいろと考えさせてくれる。
 
 この作品は1923年(大正12年)に『幽閉』と題して発表され、1929年(昭和4年)に加筆して『山椒魚』と改められた。中学や高校の教科書にもよくとられていたので、1985年当時、削除のことはかなりの話題になった。少なくとも戦後30年ほどのあいだ「和解のラスト」を多くの中学生や高校生、国語を担当する教師が読み、親しんでいたのだ。

 以後、井伏鱒二がこの部分を削除したという説明が必要となり、そののちに刊行される井伏の作品集には和解なしの結末の『山椒魚』が載るようになった。
 20年以上たった現在では「以前はこうだった」とふれることも少なくなってきたのではなかろうか。

 和解の場面があると、たしかに安心できる。予定調和故に中学生や高校生には無難な読み物となる。
 削除によって、結末が両者の膠着状態だから、その後のゆくえについては読者にゆだねられる。
 一方で、蛙は岩屋に入るときは自由に入れたのに、どうして出られないのかという疑問も出る。蛙の身体は別に大きくなったわけじゃない。すきまを見つけて出られるのでは?山椒魚が全神経を投入し、持てる能力をすべて使って、蛙を出るのを阻んだのか。
  少なくとも、けんかする程度には「友だち」「仲間」だった時期があることはあった。
 削除するときに、結末になる部分を本当は少し変えたかったのではないか?変えてしまうと、ますますやっかいなことになる。とにかく変えることはしないで、蛙のほうが嘆息し、白旗めいたものをあげ、山椒魚をゆるすかのような言葉をのべる、その一連の場面をバッサリなくしてしまった。

 『山椒魚』はファンがけっこう多い。この作品を好きだという場合、結末をどちらにしてもあまり気にならないかもしれない。
 山椒魚がおかれる「寒いほど独りぼっち」の状況への共感。救いがなくて何ともならないことの、妙なリアルさ。
 日々生きていることの感触が、物語の底からにじみ出るものと出会うときに、ああこういうことなのかなあと思える。「寓話」としての魅力でもあるのだろうか。

 閉じ込められたままで何がいけないのか、出られなくなったものをひきずり込んで何がわるいのか。そんな居直りの気持ちも起きてくる。
 結論が欲しいのが人情、しかし答えが出ないときは出ない。
 老年の井伏鱒二は、その「答え」を回収しようとしたのではないか。なぜならその方がはるかにリアルである。『あらし』『子犬を連れた貴婦人』のリアリズムを感じるのだ。
 和解などということを安易に取り扱ってはいけない。

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2014年3月29日 (土)

青木昌彦

今日は田町の整体でリラックス。

そして青木昌彦の本を読みました。制度論の白眉ですね。数回、青木先生とは会いましたが、唯一日本人でノーベル経済賞にいける人材です。また会いたくなりました。

尊敬できる知識人です。

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2014年2月 2日 (日)

読書

今日はクローチェと、福原義春の新著「美」を読みました。なかなかの良書です。

今月10日が哲学サロンです。

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2014年1月 8日 (水)

図書館

今日も特段仕事はなく。のんびり図書館へ。読書をしていると気持ちも落ち着き、いろいろ考えることで整理がつきます。星の王子様を読んでました。そしてフェルマーの最終定理について。

今年は数学分野をたっぷり読もうと思っています。今までおろそかにして、最も欠けている知識です。

明日はいよいよ撮影です。

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